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平成18年7月20日 大阪地裁 平成17年(ワ)2649号
- 特許権侵害差止等請求事件 -

事件名
:水性接着剤事件
キーワード
:実施可能要件、数値限定発明
関連条文
:平成14年改正前特許法36条4項、特許法104条の3第1項
主文
:1原告の請求をいずれも棄却する。
2訴訟費用は原告の負担とする。


1.事案の概要
本件は、発明の名称を「水性接着剤」とする特許権を有する原告が、被告による被告製品(水性接着剤)の製造販売は同特許権を侵害すると主張して、被告に対 し、被告製品の製造販売の差止めを求めるとともに特許権侵害の不法行為に基づく損害賠償(訴状送達の日の翌日から支払済みまで民法所定の年5分の割合によ る遅延損害金を含む。)を請求している事案である。


2.争点及び判決の要旨
(主な争点)
本件訴訟の主な争点は、構成要件Eの貯蔵弾性率G´及び構成要件Fのずり応力τの数値を調整する具体的手段について、当業者が実施できるように記載されているかという点である。
なお、構成要件Eの貯蔵弾性率G´とは、測定面が金属製の円錐-円盤型のレオメーターを用い、温度23℃、周波数0.1Hzの条件でずり応力を操作して貯 蔵弾性率G´を測定したとき、その値がほぼ一定となる線形領域における該貯蔵弾性率G´の値をいい、具体的には120~1500Paである(以下、かかる 値を「貯蔵弾性率G´a」という。)。また、構成要件Fのずり応力τとは、測定面が金属製の円錐-円盤型のレオメーターを用い、温度7℃の条件でずり速度 を0から200(1/s)まで60秒間かけて一定の割合で上昇させてずり応力τを測定したとき、ずり速度200(1/s)におけるずり応力τの値をいい、 具体的には100~2000Paである(以下、かかる値を「ずり応力τa」という。)。

(判示事項)
1 平成14年改正前特許法36条4項の定めるいわゆる実施可能要件は、明細書の発明の詳細な説明に、当業者が容易にその実施をできる程度に発明の構成等 が記載されていない場合には、発明が公開されていないことに帰し、自己の発明を公開することにより産業の発達に寄与した者に対しその代償として一定期間当 該発明を独占的、排他的に実施し得る権利(特許権)を付与するという特許制度の前提を欠く事態を招くことから、これを明細書の記載要件としたものである。
物の発明については、その物をどのように製造するかについての具体的な記載がなくても明細書の記載及び図面並びに出願時の技術常識に基づき当業者がその物 を製造することができるような特段の事情のある場合を除き、発明の詳細な説明にその物の製造方法が具体的に記載されていなければ、実施可能要件を満たすも のとはいえないというべきである。そして、本件のような数値の範囲を限定した特許については、当業者に対し、複数の数値を所定の範囲内に調整するために過 度の試行錯誤を強いることなく実施し得る場合でなければ、実施可能要件を充足するということはできない。

2 本件発明は、耐垂れ性と押し出し性を両立するという課題を解決することを目的とするものであり、その目的を達成するために重要なことは、垂れ性を規定 する貯蔵弾性率G´と、押し出し性を規定するずり応力τの値を、構成要件E及びF所定の値に調整することにあることは明らかであり、その点が本件発明の最 大の特徴であるということができる。そうである以上、本件明細書に、構成要件E及びF所定範囲の貯蔵弾性率G´a及びずり応力τaを備える水性接着剤につ いて、当業者が特別な知識を付加することなく、また、当業者に過度の試行錯誤を強いることなく、本件明細書の記載と技術常識に基づいて製造できるように記 載されていなければ、本件明細書は実施可能要件を充足することにはならない。

3 本件明細書の詳細な説明の欄には、段落【0024】と【0046】に、貯蔵弾性率G´aとずり応力τaの2つの数値を調整する主要な要素を示す記述が あるが、実施例として具体的な発明の実施の形態が記載されている以外には、貯蔵弾性率G´aとずり応力τaの2つの数値を調整する具体的手段を示す記載は ない。そして、製造方法が開示されている実施例は3件に過ぎず、その内容は、重合開始剤(触媒)に35重量%過酸化水素水を用いて、これを重合初期に多量 (全量又は2分の1)に一括添加した後、過酸化水素水を水に溶解させた水溶液からなる触媒と酢酸ビニルモノマーを連続滴下して重合させ、あるいはこの時点 で残りの触媒を添加して重合する場合のみであって、当業者が触媒を重合の初期に多量に用いないで本件発明を実施しようとした場合に、本件明細書の段落 【0046】に記載されている多くの要素をどのように調整すればよいのかについては、本件明細書の発明の詳細な説明の記載中にはこれを示唆するものもな い。
したがって、当業者において、重合初期に触媒(過酸化水素水)を多量に使用しない場合に、貯蔵弾性率G´a及びずり応力τaを調整する手段が本件明細書に 開示されているものと理解することは困難であるというべきである。現に、本件においても貯蔵弾性率G´a及びずり応力τaという2つの数値を所定の範囲に 調整するために、製造条件をどのように変更すればよいのかは、本件明細書上全く触れられていない。
また、本件明細書中に記載がなくても、当業者が触媒(過酸化水素水)を重合の初期に多量に使用しない場合において、本件特許出願等時の技術常識に基づいて貯蔵弾性率G´a及びずり応力τaの値を所定の範囲内に調整することができると認めるに足りる特段の事情もない。

4 以上によれば、本件明細書の記載によっては、触媒(過酸化水素水)を重合の初期に多量に使用しないという製造方法を用いる場合において、当業者におい て、特別な知識を付加することなく、また、当業者に過度の試行錯誤を強いることなく、貯蔵弾性率G´a及びずり応力τaの値を構成要件E及びF所定の範囲 内に調整する具体的手段について、当業者がその実施をすることができる程度に明確かつ十分に記載されているとはいえず、改正前特許法36条4項所定のいわ ゆる実施可能要件を充足するとは認められないというべきである。

5 したがって、本件特許は、改正前特許法36条4項に規定する実施可能要件を満たしていないから、同法123条1項4号に該当し、特許無効審判により無 効にすべきものと認められるから、特許法104条の3第1項により、原告は、被告に対し、本件特許権に基づく権利行使をすることはできないというべきであ る。


3.執筆者のコメント
平成14年改正前特許法36条4項によれば、発明の詳細な説明は、その発明の属する技術分野における通常の知識を有する者がその実施をすることができる程 度に明確かつ十分に記載しなければならない。本判決は、とりわけ数値限定発明に係る特許につき、当業者が複数の数値を所定の範囲内に調整するために過度の 試行錯誤を強いることなく実施し得るように明細書が記載されていなければ36条4項を充足しないとの基準を定立したうえで、本件明細書については、特定の 製造方法を用いる場合以外には、過度の試行錯誤を強いることなく発明を実施することができないとして36条4項を充足しない旨判断したものである。
本判決は、実施可能要件違反を根拠として特許法104条の3第1項を適用して請求を棄却した事例として参考になるものと思料する。


(執筆者 重冨  貴光 )


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