特許第9494号(※喞筒(しょくとう)はポンプ)
特許第41728号
「科学技術で社会に貢献する」思いを貫き、知的財産を産業の発展につなげながら、最先端の製品を約150年も世に送り続けています。
計測機器、医用機器、航空機器、産業機器など幅広い分野で事業を展開する京都の老舗メーカー、株式会社島津製作所。ノーベル賞受賞者を輩出するほど技術力が高く、特許保有件数は国内外合わせて6,776件※にものぼるグローバル企業ですが、その始まりは教育用理化学器械の製作でした。今回は島津製作所 創業記念資料館にお伺いし、創業当時から作られてきた貴重な器械や装置、文献や資料を見せていただきながら、長きに渡る知的財産との関わりについて教えていただきました。
※2023年2月現在 同社webより
情熱で日本の発展を技術で支えた、2人の「島津源蔵」
- 取材担当者
- 今日は資料館の中の貴重な資料を見せていただき、ありがとうございました。仏具職人から理化学器械を作り始められたことが創業のきっかけとは、意外でした。
- 島津製作所 創業記念資料館
- 創業者である島津源蔵は、現在この資料館がある地で仏具の鋳物業を営んでいましたが、明治維新による廃仏毀釈の波が押し寄せて、仏具業が難しくなりました。 その頃、目の前に現在でいう産業試験所である「舎密局(せいみきょく)」ができ、そこへ足繁く通うようになって科学の知識を学び西洋の新しいものに触れていく中で、これからの時代はこれだと感じたのでしょうね。 源蔵は教育用理化学器械の製造を始めました。これが島津製作所の創業です。
- 取材担当者
- それはいつのことですか。
- 島津製作所 創業記念資料館
- 明治8年です。明治政府は欧米の優れた科学・技術の導入を急ぎますが、まだ日本で科学があまり普及していない時代だったので、科学を学ぶための器械はほとんどありませんでした。 まだ学校も少なく、道のりも険しかったのですが、「外国に頼らない日本独自の科学技術を確立する」という強い思いで作っていたようです。明治10年には、東京で開催された第一回内国勧業博覧会で医療器具を出品するほどになり、褒賞を受けました。
- 取材担当者
- 創業して2年後とは、すごいですね。
- 島津製作所 創業記念資料館
- 出品だけではなく、島津のチャレンジ精神を象徴する出来事として社内外に広く伝わっているのが、明治10年の有人軽気球の成功です。絹の表面に溶かしたゴムを塗って風船部分を作り、希硫酸と鉄クズで水素を発生させてふくらませた気球に、人を乗せ飛揚に成功しました。取扱いに注意を要する水素についても、源蔵は試行錯誤を繰り返しながら作ったようです。
- 取材担当者
- 勉強熱心だったのですね。
- 島津製作所 創業記念資料館
- 明治15年に発行された110種類もの機械を販売していたことがわかる目録が残っているのですが、最後のページには「御好次第何品ニテモ製造仕候也」という文言が書かれています。 ここからも、源蔵のものづくりへの姿勢が伝わってきます。そのためにも、技術の研鑽や研究を重ねていたのだと思います。 源蔵のこのような精神は、二代目源蔵となる息子の梅治郎に受け継がれました。
- 取材担当者
- 二代目は、昭和5年に日本の十大発明家に選ばれていますよね。
- 島津製作所 創業記念資料館
- 子どもの頃から好奇心が旺盛で発明の才能を発揮し、明治17年、15歳で都をどりの会場に電気(アーク灯)を灯し、その半年後「ウイムシャースト感応起電機」を完成させるなど、父譲りの才能を発揮しました。 明治27年に父が急死したので25歳で二代目源蔵を襲名して事業を継承したのですが、レントゲン博士がX線を発見した11ヵ月後の明治29年、京都大学の前身の一つである第三高等学校の村岡範為馳教授とともにX線の撮影も成功させるほど、発明や開発を次々と行っています。
- 取材担当者
- 初代も二代目も、源蔵さんが手がけられるものは「日本初」が多いですね。
- 島津製作所 創業記念資料館
- 新しい科学の分野に注目し、情熱を持って研究と勉強を重ねたからでしょうね。二代目源蔵を代表する事業とも言えるものが蓄電池の開発ですが、他にも研究用や産業機器など次々と新しい分野を切り拓いて日本独自の産業技術の発展に力を尽くし、生涯で178件の特許を取得しています。
時代に沿った開発と商売のあり方
- 取材担当者
- 以前私たちは、「ちざい げんき きんき」という、関西の企業・団体による知財活動の「いま」を紹介する関西会の事業でGSユアサ様を取材させていただいたのですが、その際に源流は御社にあり、社名のGSが二代目源蔵さんの「GENZO SHIMADZU」の頭文字であることを知り、驚きました。
- 島津製作所 創業記念資料館
- 明治30年、京都帝国大学の教授から、当時輸入に頼っていた蓄電池を日本で作れないかと依頼されて完成させたことが始まりでした。当時は日露戦争、第一次世界大戦へと向かっていく時期で、蓄電池の国産化が重要であり、名前の頭文字をとった『GS蓄電池』ブランドの電池事業を始めました。大正6年にはこの電池部門だけを独立させて日本電池株式会社を設立し、後に同業者であったユアサコーポレーションと統合されて現在のGSユアサになっています。この「GS」は商標登録されていますし、電池の原料の『易反応性鉛粉製造法』も特許を取得しています。
- 取材担当者
- 事業継承では、そのような知的財産も一緒に移されたのですか?
- 島津製作所 創業記念資料館
- そうですね。それも含めて継承しています。
- 取材担当者
- マネキンも、御社が源流となって事業継承もされたとか。
- 島津製作所 創業記念資料館
- 学校用の理化学器械を作っていく中で、博物学の教材制作のために標本部を新設して植物模型や鉱石標本の生産もはじめ、そこから人体のことを立体で学べる人体模型を手がけるようになりました。 材質は、紙に樹脂を塗った軽くて堅牢な「島津ファイバー」を開発し特許を取得しています。 また、当時、国産の洋装マネキンはなく、パリからマネキンを輸入していたのですが、蝋で作られていたので輸送中の暑さで溶けてしまうのが常でした。 そこで、蝋製標本製作の技術を用いてマネキンの修理を請け負っていたところから、自社でマネキンの制作をするようになり、人体模型制作で培った解剖学的な知識も活かされました。
- 取材担当者
- それでは洋装マネキン制作の日本初も御社なのですね。
- 島津製作所 創業記念資料館
- はい。その後、市場でも評価されてマネキンの一大メーカーとなったのですが、マネキンの制作に関わっていた二代目源蔵の次男である良蔵が事業継承し、七彩、吉忠、ヤマトマネキンが誕生しています。
- 取材担当者
- 多岐にわたる分野の事業を手がけられているうえに、あらゆる国産品の源流を作られていますね。
- 島津製作所 創業記念資料館
- 装置の販売に伴い、レントゲン講習会や放射線技師育成の施設も開設しています。当時、放射線障害の危険もふくめ、X線や装置に関する正しい知識を普及することが、重要な課題になっていました。レントゲン技術講習所は、後に専修学校となり、現在は「京都医療科学大学」になっています。
- 取材担当者
- 二代目源蔵さんは、とても先見の明があったのですね。
- 島津製作所 創業記念資料館
- 時代のニーズに応えていく中で着実に技術を蓄積してきたと考えます。学校制度の拡充・整備が進む中で、多様な教育用理化学器械や精度の高い研究用機器の製造に取り組み、産業革命の開始や日清・日露戦争によって蓄電池の製造を開始しています。国産化できない製品については欧米の有名なメーカーと代理店契約を結び、輸入していました。最先端の技術を用いた製品に直接触れることで新製品開発のヒントも得ていたと考えます。輸入品に独自の工夫を加えるようなこともしています。
- 取材担当者
- 明治の時代から、商社のように輸入販売するだけではなく、日本流に手を加えて販売していたのは面白いですね。
- 島津製作所 創業記念資料館
- 例えば、「ウイムシャースト感応起電機」には、湿気が高い日本でも放電するように、金属箔をガラスで覆う技術を加え、特許を取得しています。
- 取材担当者
- 日本ならではの工夫があったわけですね。 日本の科学技術の発展の過程が、源蔵さんや御社に凝縮されているように感じます。
- 島津製作所 創業記念資料館
- 理化学器械で学んだ人間が、その後の日本の工業や産業を支えていくのですから、この精神は現在の社是「科学技術で社会に貢献する」にもつながっていると思います。
知的財産への取り組み
- 取材担当者
- 初めて特許を取得されたのはいつだったのでしょうか。
- 島津製作所 創業記念資料館
- 明治38年10月4日のことで、二代目島津源蔵が考案した『輪転圧昇喞筒』(特許第9494号)です。 初の登録実用新案も、同年に二代目源蔵が『回転変色板装置』で取得しています。
- 取材担当者
- 明治18年(1885)4月18日に現在の特許制度の基となる、専売特許条例が公布されていますが、まだ世の中は知的財産という考えがまだ根付いていなかった時代だったと思いますが、御社はそこに力を尽くされていたように思うのですが。何かきっかけがあったのでしょうか。
- 島津製作所 創業記念資料館
- 明治22年、京都に第三高等学校が移転されてからは、教授の指導のもと機器を島津が作るという、共同開発のようなことがされていました。そうした経緯の中で特許の重要性についても学んでいったのだと思います。明治期後半からは、製品に付ける銘板にも「特許出願中」「登録実用新案出願中」といった特許情報の掲載が見られることから、知的財産を意識し始めたと読み取れます。
- 取材担当者
- しっかり権利として守らないと、という意識が芽生えたのですね。
- 島津製作所 創業記念資料館
- 当時の教育用理化学器械の大半は輸入品の模倣からはじまっているので、教育用については特許という認識が薄かったように思います。理化学器械の日本でのスタートは「模倣」からなので、新しく発明し特許を取得するという発想が他の産業機器とは違っていたのだろうと今では思います。しかし、蓄電池は、海外から技術を買うことに反対して独自の開発に挑んでおり、特許に対するこだわりを強く感じます。大正期の社内資料には、「今月の特許○件、実用新案○件」と必ず報告されています。それには同類製品で他社が取得した特許情報も掲載されていることから、競合相手のものもモニターしていたようです。
- 取材担当者
- 当時から、他社の動向も意識されていたのですね。また、当時、特許を取得されるとき、弁理士に依頼されたのでしょうか。
- 島津製作所 創業記念資料館
- それが、特許取得に関する当時の資料があまり残ってなくて…詳しくは分かりません。旧本社の小屋には、明治初期からの特許証や公報などが遺されており、歴史的資料としてデータ化し保存しています。その資料を見て頂くと、代理人として弁理士さんのお名前が書かれていますね。
- 取材担当者
- 特許庁が東京にあるため、当時は弁理士もほとんどが東京にいて、関西には少なかったのではないかと思われ、弁理士を見つけるのも大変だったと思います。首都も京都から東京への時代でしたが、事業を行うにしても、本社を東京へ移動させずにずっと京都にいらっしゃったのは何か理由があるのでしょうか。
- 島津製作所 創業記念資料館
- 東京に出る必要性があまりなかったのでしょうね。明治39年には東京出張所を開設していますが、当時、「本社を東京に移す」意識はなかったように思います。京都帝国大学も近くにあり、大半の教授らは東京から来て留学経験もあったので、情報収集には苦労していなかったようです。
- 取材担当者
- この京都の地で、長きに渡り知的財産を大切にしてこられたのですね。そのための組織である特許部門(あるいは知的財産を取り扱う部門)が最初につくられたのはいつ頃ですか。また、当時の特許部門の人数とか分かれば教えて下さい。
- 島津製作所 創業記念資料館
- 昭和7年の職制表に「特許係」があります。人数は兼任も含め3人でした。
- 取材担当者
- 特許部門の陣容や体制が大きく変わった時期があれば教えて下さい。
- 島津製作所 創業記念資料館
- 昭和18年の職制表には「特許課」があり、これまでの係から課に変わっています。最近ですと、弊社の田中耕一が2002年のノーベル化学賞を受賞後に強化されたようです。今でも知的財産活動は全社をあげて取り組んでいますし、研修も随時行いながら戦略的活用をして、技術のブランド化や企業価値の向上を進めています。
- 取材担当者
- そのような知的財産活動が評価されて、令和3年に「知財功労賞 特許庁長官表彰」を受賞されたのですね。
知的財産で連綿と続くブランドを守る
- 取材担当者
- 精巧であった島津製作所の製品は、"丸に十の字"の社章を付けてブランドとして確立されていったように思うのですが。やはりその意識はあったのでしょうか。
- 島津製作所 創業記念資料館
- あったと思います。島津製品につけていた銘板には、特許情報の他に支店情報や共同研究した先生のお名前が書かれているものもありますし。 箔を付けるための差別化をしていたように思います。
- 取材担当者
- 銘板という、知的財産権の出願以外のところにも知的財産の保護の仕方があり得るということでもありますね。その価値にいち早く気付いて、ブランドとして差別化しながら商売を続けてこられたことはとても興味深いです。
- 取材担当者
- 差別化のシンボルともなる"丸に十の字"の社章は、商標登録されているのですか?
- 島津製作所 創業記念資料館
- 大正元年に商標登録しています。
- 取材担当者
- (整理してデータ化された過去の資料を見ながら)この資料からすると、若干太さが変わっている時期もありますし、少しずつ変えながら更新していっていますね。
- 島津製作所 創業記念資料館
- 「玩具遊具運動器」と書かれて、この社章を商標登録しているものもありますね。
- 取材担当者
- 指定商品を増やしていかれたのでしょうね。基本的な"丸に十の字"の標章をキープしたまま、時代とともに事業を広げる度にきちんと改めて取得されているのは、歴史の積み重ねでもありますし、見る人への意識付けとしても非常に重要だと思います。一度取得したら終わりではなく、同じ標章でも事業を拡大するタイミングで商標を取得していく必要があるのですね。この登録商標の変遷は情報としてとても面白く、貴重なデータです。
- 島津製作所 創業記念資料館
- そうですか。これは明治41年~昭和4年までの控えで、特許係が記録しているようです。X線の装置や海外製品の商標も多いですね。また、特許公報の資料を見ると、発明者のところに、従業員や大学の教授、病院の先生など、いろいろなお名前が書かれていますね。
- 取材担当者
- 発明者は発明した人それぞれのお名前になりますから。一方で、出願人は、共同開発をしたり、権利を買い取ったりして企業の名前になっていることは多いですね。
- 島津製作所 創業記念資料館
- 会社の歴史と当時の考えや関わった人がよく分かりますね。この資料をデータ化した時、残すことの大切さを感じました。紙だと朽ち果てますから、今のうちにデータ化しておかないと、と思いました。
- 取材担当者
- 資料をきちんと保管することは、本当に大切だと思います。このような昔の資料に触れる機会がなく私たちも見たことがなかったので、大変勉強になりました。
- 島津製作所 創業記念資料館
- こちらも資料を見直し、改めて貴重だと感じることができました。
- 取材担当者
- 本日は、とても貴重な資料とお話をありがとうございました。
株式会社島津製作所
もうすぐ創業150年を迎える京都の精密機器メーカーで、「科学技術で社会に貢献する」を社是に社会の課題と向き合い、計測機器、医用機器、航空機器、産業機器など暮らしの中で活躍する製品を作り続けています。主に「人の健康」「安心・安全な社会」「産業の発展」の事業領域で事業を通じてその解決に直接的・間接的に取り組みながら、さらなる事業拡大と企業価値向上に挑戦しています。
2023年3月31日掲載