平成18年8月31日 知的財産高等裁判所 平成17年(行ケ)第10767号
- 審決取消請求事件 -
- 審決取消請求事件 -
- 事件名
- :薄膜トランジスタ事件
- キーワード
- :審決取消、新規事項追加
- 関連条文
- :特許法17条の2第2項,17条2項
- 主文
- :特許庁が不服2002-18694号事件についてした審決を取り消す。
1.事件の概要
本事件は,補正を新規事項追加として却下し補正前の出願に基づいて下した拒絶審決を,補正が新規事項の追加に当たるとした判断に誤りがありその結果発明の要旨認定を誤った,として取り消した事例である。
2.争点及び判決の要旨
判断された争点は,審判における最後の拒絶理由に対してした補正(第2補正)が新規事項追加に当たるか否かである。当該補正(下線部)は,「・・・前記結 晶性半導体膜に含まれる前記ニッケルの濃度は1×1016cm-3~1×1019cm-3であり,前記結晶性半導体膜中のニッケル濃度の上限値は,前記 ニッケルを除去することにより前記濃度1×1019cm-3を上回らない・・・」というものであった。
審決は,本願が物の発明であるから,ニッケル濃度の上限値は「ニッケルを除去」する工程を経た値である一方,下限値は「ニッケルを除去」する工程を経てい ない値であるというように,異なる時点での状態を同時に規定したものとすることは認められないとし(認定[1]),上限値が「前記ニッケルを除去するこ と」により得られた値である以上,下限値についても「前記ニッケルを除去すること」により得られる値と認定せざるを得ないとした上で(認定[2]),下限 値が「前記ニッケルを除去すること」により得られる値であることの記載がないから,補正が当初明細書に記載した事項の範囲内におけるものでないと判断した ものであった。
これに対し原告は,補正後の請求項にはニッケル濃度の下限値が「ニッケルを除去する」工程を経ていない値であるとの事項が一切記載されていないから,認定 [1]は,補正後の請求項に記載されていない事項を「記載されている」というものであり,前提において誤りである旨,また,補正後の請求項にはニッケル濃 度の下限値が「前記ニッケルを除去すること」により得られる値であるとは一切記載されていないから,下限値について「前記ニッケルを除去すること」により 得られる値であるとした認定[2]も,補正後の特許請求の範囲の記載に基づかず誤りである旨主張し,併せて,明細書中の,ニッケル等に関し「過剰にシリコ ン膜中に含まれている場合には,これを除去することが必要であるが,・・・」との記載,及びより好ましいニッケル濃度範囲としての 「1×1016cm-3~1×1019cm-3」との記載を引き,補正に係る発明は,ニッケルが過剰な場合に限りこれを上限値まで除去するものであって, 下限値はニッケルを除去することにより得られる値ではないから,認定[1],[2]は誤りであると主張した。
裁判所は,補正後の請求項の文言上,ニッケルの濃度が1×1019cm-3を下回る場合においてニッケル除去工程を行う記載がないのみならずニッケルの濃 度範囲「1×1016cm-3~1×1019cm-3」の記載と,「・・・ニッケルを除去することにより前記濃度1×1019cm-3を上回らな」いこと とが区別して記載されていることから,補正後の請求項の記載において,下限値はニッケル除去工程とは直接関連せず,補正後の請求項に記載の発明はニッケル 除去工程を必須とするものでない旨認定した。更に裁判所は,明細書にニッケル除去工程が必須であることをうかがわせる記載がないこと,及びニッケル除去工 程を経ていない実施例の記載があることを指摘し,補正後の発明は,ニッケル濃度の上限値が1×1019cm-3を超える場合には,ニッケル除去工程を行う ものであるが,それ以外の場合にニッケル除去工程を必須とするものではないと認められるから,下限値が「ニッケルを除去すること」により得られる値である との審決の認定[1],[2]は誤りである,判断した。
その上で裁判所は,当初明細書にニッケル濃度の上限値が1×1019cm-3を越える場合にはその上限値の範囲内とするためニッケル除去工程が必要である ことや,ニッケル除去工程を経ていない実施例の記載があることによれば,本件補正は当初明細書に記載した事項の範囲内であり,また本件補正は,審決も認定 するとおり,明りょうでない記載の釈明を目的とするものであるから,本件第2補正は適法であり,審決の判断は誤りであるとした。
3.コメント
当初明細書には,ニッケル除去工程を含まない実施例もあり,ニッケル除去を必須とすることを伺わせる記載はないから,判決は結論として是認できる。
明細書には,シリコン膜中のニッケルの濃度として1×1016cm-3~1×1019cm-3がより好ましいことが記載されているが,「上限値」,「下限 値」なる記載はなく,従って,「上限値」の意味の説明はない。明細書中,これに関連する範囲記載は,「~1×1019cm-3」のみである。従って,「上 限値」を単に「1×1019cm-3」の言い換えと受け取ることもできるが,そうすると補正個所「前記結晶性半導体膜中のニッケル濃度の上限値は,前記 ニッケルを除去することにより前記濃度1×1019cm-3を上回らない」は,「・・・の上限値は,・・・上限値を上回らない」というのに等しく,無意味 な記載となる。単に「前記結晶性半導体膜中のニッケル濃度」を意味しているのであれば,「の上限値」の語は不要であるし,また,例えば半導体膜中のニッケ ル濃度分布の最も高い値などを意味しているのか否かも不明である。更に,「上限値」なる語は,「最高値」等とは異なり,上方の限界値を意味する語,すなわ ち枠組を示す語であり,ニッケル除去処理で低下するニッケル濃度そのものとは異なって,本来変動する性質のものでないから,「上限値は,前記ニッケルを除 去することにより前記濃度1×1019cm-3を上回らない」との記載は,その点でも,意味が不明確である。審理過程で用いられている「下限値」の語につ いても同様の問題がある。
本事件では,「上限値」,「下限値」の語が,意味が質されないまま,無造作に審判及び訴訟で用いられている。審決中の,「下限値が『前記ニッケルを除去す ること』により得られる値である」との認定も,この用語の混乱を放置したまま審理したことに一部由来すると思われる。また,判決中にも,「本件第2補正発 明は,ニッケルの濃度の上限値が1×1019cm-3を超える場合にはその上限値の範囲内とするためニッケル除去工程を行うものではあるものの・・・」と の記載があり,これら2箇所の「上限値」を同一の意味に解する限り,この記載は論理的に意味不明である。
なお,判決は,「審決も認定するとおり,明りょうでない記載の釈明を目的とするものであるから,本件第2補正は適法であり・・・」と述べている。新規事項 追加の禁止(特許法17条の2第2項)と明瞭でない記載の釈明に該当する補正の許容(特許法17条の2第3項4号)とは,相互に独立して規定されているか ら,後者の判断が前者の判断を前提として含んでいるかのようなこの判事箇所は誤りであると考える。
(執筆者 早坂 巧 )